ライスたっぷりあずにゃんちょっぴり【未完】

 私と大切な人が明日死ぬとして最後に食べたいごはんはカレーライスです。
 ふわふわのルーやさらさらのスパイスとすてきなライスが絡み合ったそれはきっと特別な味。
 目によく鼻によく舌に美味しい魔法の食べもの。おおすばらしきはカレーライス。

 スパイスのまじりあう秘密の味は一種類ずつ口に広がり舌の上ではじけて今までに食べた全部のカレーライスを思い出させる。
 あ、これは妹と一緒に作ったカレーの味。この香りはお母さんと喧嘩した日の夕食。
 はじめて自分のお金で食べたお店のスープカレー。カリカリとした歯ごたえがたまらないカツカレーに、さっぱりとした茄子とトマトの野菜カレー。

 思い出せる限りの人生のぜんぶを私はカレーを食べて生きてきた。そして、それはいつだって幸福をもたらした。
 たとえば朝、母と喧嘩した、その日の夕飯に作ってくれたビーフカレー——私の大好物だ——を泣きながら食べた時も、そのお母さんが死んだ翌日に同様に食べたカレーでさえも。
 幸福と言って悪ければ、カレーは私のなにもかもなのだ。
 苦しいことも悲しいことも、楽しさも喜びも、魅惑のスパイスの中になにもかもが詰まっている。
 ルーとライスをスプーンで一口。私は生きている。これまでも生きていた。おいしい。
 だから私は中野梓と一緒にカレーを食べたい。

 そう言ったら笑われました。


———


梓「ふふっ……なんですか、それ?」

唯「あれ〜?」
<>0304追記、以下の段落にキュンキュン成分追加すること|done

 今私とあずにゃんは合宿の食糧買い出し部隊として現地のスーパーに来ています。
 山のようなお肉を買い、野菜を選ぶ段になってふと思いついて先ほどの話を振ってみたのですが、どうやらうまくいかなかったようです。

梓「だめですよ。今日はバーベキューってみんなで決めたんですから」

 敵は手ごわい。
 ふふ、だけど私はこんな時の必殺技を知っています。

唯「あーずにゃん、ぎゅー!」

梓「きゃっ!? せ、先輩!?」

 私が抱きつくとあずにゃんは悲鳴を上げながら、お肉の入ったカゴを持っていない方の手で押しのけようとします。
 ところがどっこい、その顔が真っ赤になっていることを私は見逃しません。
 うぶなあずにゃんは私に抱きつかれるとすぐメロメロになって、今晩のごはんをカレーに切り替えることを一瞬で了承してしまうでしょう。

梓「離れてください!」

唯「うええ、なんでぇ!?」

 敵はなかなかに手ごわかったようです。あえなく引き離されてしまいました。
 作戦に手抜かりはなかったつもりですが……もしかして、あずにゃんは私のことがあんまり好きじゃないのかなあ、なんて時々、週に一度、いえ、月に一度くらいは考えてしまいます。
 あずにゃんはぷりぷりと怒った顔で私を睨みました。

梓「べたべたしないでください。だいたい、こんなところであずにゃんあずにゃんって呼ぶのもやめてください!」
<>

唯「ちぇ〜、あずにゃんにふられちゃった……」

梓「ばか言ってないで、先輩も少しは荷物持ってくださいよ」

唯「うん、あずにゃ……」

 不意に、砂粒を噛んだような違和感に襲われました。

唯「あずにゃん」

梓「はい」

唯「私、いつもあずにゃんのこと、あずにゃんって呼んでたっけ?」

梓「そうですけど、どうかしたんですか?」

 あずにゃんは今しがた奇妙なことを聞いたばかりだといった表情で私の顔を覗き込みました。
 その視線には困惑のほかに、どこか不安の色がまじりあっています。

唯「そっかあ」

 自分でもなんだか分からない涙がこぼれおちる。晴れた空から落ちてきた雨粒のようでした。

梓「唯先輩?」

 あずにゃんがびっくりしています。
 わけが分からないという顔です。ごめんね。でも、私にもわからないんだ。
 胸に迫るこの気持ちは、どうしてでしょう、安堵感としか呼びようのないものでした。
<>

 涙があふれて止まりません。
 あずにゃんが、おずおずとハンカチを差し出してくれました。
 ハンカチよりもその手が差し出されたことがありがたく、うれしくて、その手をつかみました。

唯「ごめん、あずにゃん。へんだな、あずにゃんが遠いところに離れちゃったような気がしてて」

梓「しっかりしてください。これじゃ、私が泣かせたみたいです」

唯「幸せで、泣けることって、あるんだねえ」

 その幸福は、しかし身のうちにナイフを挿しこまれたような痛みを伴うものでした。
 この痛みの理由だけは私にもわかります。
 恋しい。鳴り響く心臓が痛いほどに。彼女の身体をつかまえて、自分の一部としてしまいたいくらい。

 この想いをいま打ち明けてしまおう。
 はっきりとした言葉で、彼女に伝わるように。

 けれど握ったはずの小さな掌は、逃した瞬間すらわからぬうちに消えてなくなりました。

唯「あずにゃん?」

 涙をぬぐって目を開いたときには、あずにゃんはもう私の近くにはいませんでした。
 いえ、それどころか、客はおろか店員にいたるまで、私以外の誰ひとり見当たらないのです。
 自分が本当にスーパーの店内にいるのか、それすらもわかりません。

 スニーカーの靴底と床板のこすれる音が鳴り響きました。
<>

唯「あずにゃん! どこ行ったの! ムギちゃーん!」

唯「あずにゃん……?」

唯「誰もいないの? りっちゃん、澪ちゃん! うーいー!」

 消えたあずにゃんを探して歩き回っていると、見覚えのある空間に出ました。

 病院のような清潔な壁と床で囲まれた広い部屋の中心に腰ほどの高さの台車が置いてあります。
 台車の上にあるのは、木でつくられた大きな箱です。
 その奥の壁に金属の扉が見え、それはちょうど箱より一回り大きいくらいの、頑丈そうな扉でした。
 私にはそれが火葬のための炉だということが分かりました。

憂「お姉ちゃん」

 黒い服を着た憂が横に立っていました。

憂「ちゃんとお別れして、………………と」

唯「……!」

 私はなにか言おうとするのですが体が金属に押しつぶされるように苦しくて、声を出すことができません。
 圧迫は急速に力を増していきます。助けを求めて手を伸ばそうとしても腕を動かすことができなくて——。


———
<>

唯「くるしい!」

 叫んだ声で目が覚めました。

 寝室にさしこむ初夏の朝日が寝ざめの目にまぶしいです。

 何もかも夢でした。
 私はゆっくりと息をついて、現在の自分が高校生でないこと、そしてここが軽音部の合宿先でも、ましてや火葬場なんかじゃないことを確認します。
 すべて悪い夢です。悪魔が枕元に立ってでもいたのでしょう。

 夢にしてはおかしいのが、体に感じた圧迫感のリアリティと、それが現に夢から覚めてなお体の上に感じられるということなのですが。

?「……」じーっ

唯「あう」

 悪魔は、おなかの上に座っていました。

唯「……おはようございます」

?「おはようございます」ぺこり

 まあ、いい挨拶。

唯「ゆいちゃん、起こしてくれたんだねえ。ありがとう。次はもうちょっとソフトにしてくれるかな」
<>

 そのかわいい悪魔をおなかの上に載せたまま無理やり身を起こそうとしますが、うまくいきません。
 いくら五歳の子の小さな体とはいえ、人間一人の重みというのは御しがたいものです。
 はやくどいてくれないかなあ。

ゆい「ゆいちゃん」にー

唯「うん、『ゆいちゃん』」

ゆい「おなじ名前」

唯「おなじだねえ」

 今までに少なくとも十回は繰り返したやりとりを再演すると、彼女は満足したのか私の上から降りて部屋を出ていきました。

唯「ふいー……」

 私は安堵から、再び息をつきました。
 なにも重圧から解放された喜びだけからそうするのではなくて、こうしてなんの準備もなしに彼女の顔を間近で見るのにはまだ慣れないのです。

唯「やっぱり、そっくりだなあ」

 彼女、——中野結(ゆい)は高校時代の後輩、中野梓の娘です。
 ゆいちゃんは私が自分と同じ読みの名前なのが面白いらしく、私にずいぶん懐いてくれていて、そのこと自体はうれしいのだけど……。
 朝が来るたびに体に乗っかって起こしてくれるのだけは、是非ともかんべんして頂きたい。
<>2010.3.3 18:10|21:20

唯「昔の夢なんて、ひさしぶりかも」

 私は先ほどまで見ていた夢の内容を反芻し、あの合宿の日からもう十年近い歳月が流れたことを改めて痛感しました。
 なんだか美しいばかりでない、不吉な夢だったような気もしますが。

 あのころの出来事がこの今になって夢に出てきたのはきっと梓ちゃんが居るからでしょう。
 彼女たち親子は現在、訳あって私の家で暮らしているのです。

 ベッドから降りて化粧台の鏡を見ると、どうやら自分がすこし泣いたらしいことが分かりました。
 あの夢の中では彼女のことを「あずにゃん」と懐かしい名で呼んでいたようです。
 当時のことだから、むしろそれが当然なのですが、照れくさくて一人でにやけてしまいます。


 ——今の私は梓ちゃんを昔のあだ名で呼べずにいます。
 恥ずかしいから、というのではありません。
 彼女が子供を産み、母親となった今日ではそれは不釣り合いに思えるからです。
 あの呼び方には、あの頃彼女に恋していた私の気持ちが結びついているのだから。
 私にとってあずにゃんは、勝手なことかもしれないけど、恋人のような存在でした。
 しかし母親として守るべきひとのいる梓ちゃんに対しては、私は身勝手な恋心を抱くのではなく、よき友人でなければならない。
 それが彼女を家に受け入れる上で、私の決めた立場でした。


 簡単な化粧を終え寝室の戸を開くと、階下から食べもののいい匂いと包丁を扱う音が聴こえてきました。
 そういえば、あの合宿では結局カレーを食べたのだっけ?
<>21:45|23:30

 私の寝室は二階で、一階の部屋を梓ちゃんとゆいちゃんに使って貰っています。
 最初に部屋へ案内したとき、「こんなに広い部屋使えません」と言って断られそうになってしまいましたが、私の寝室を見せることで納得してもらえました。
 私の部屋の方が広いです。

 階段を降りる手前で、踊り場の明かりが点けたままであることに気付きました。
 おそらく、昨夜スイッチを切るのを忘れてしまったのでしょう。
 一晩中点灯していたランプは芯が消耗したのか、光が弱々しくチラついています。
 近いうちに新しいのに替えるべきでしょうか。


 台所でエプロン姿の梓ちゃんが、小さな体をきりきりと動かしてお料理をしていました。
 いいなあ。この景色。
 うっかり、幼な妻なんて言葉が頭に浮かんだことに気が咎めます。

唯「梓ちゃん、おはよう」

梓「おはようございます。すみません、唯先輩、ごはんまだ出来てないんです」

 あわてたように言う梓ちゃんに、私は手を振って「いいよう」と返します。

 梓ちゃんはまだ、私の家での暮らしに遠慮を感じているみたいです。
 なにも気にしないでいいのに、と思うのですが、まじめな梓ちゃんはなかなか安心してくれません。
 本当なら、年上の私が安心させてあげなくちゃいけないのですが……。
<>

 はじめは料理当番を押し付けるなんて悪いかと考えていたのですが、

和「本人の気のすむようにやらせてあげなさい。その方がきっと楽だろうから」

 というありがたい友人のアドバイスに従って、今では家事一切を梓ちゃんに任せてしまっています。

 本当になんでもやってしまうので、やはり一人暮らしの人間と、お嫁に行った女の子とは、格が違うなあと思います。
 ただ、料理だけは憂仕込みの私の味の方が上だという自信があります——これは本人には絶対に内緒ですが。

唯「もしかして、今朝のメニューはカレーかな」

梓「おみそ汁ですけど……カレーが良かったんですか?」

唯「ううん、なんとなくそんな気がしただけ」

 しばらく一緒に暮らすうちに気付いていました。
 梓ちゃんは、朝にカレーを食べない人種だったのです。
<>23:50|0304、20:10

 ダイニングではゆいちゃんが床に足先がつかないまま、座るというよりは乗っかるといったていで、アームチェアの上で足をぶらぶらさせていました。
 そんな姿を見ると、やはり梓ちゃんにそっくりだと思ってしまうのですが、これは本人に聞かせたら怒るたぐいのことでしょう。
 音楽室の椅子に、足のつかぬまま座っていた姿を目前に見るかのようなのですが——。

 おはよう、と声をかけてもゆいちゃんは無視して応じませんでした。
 これはけしからぬこと、と考えてみましたが、何のことはない、つい先ほど寝室で挨拶を交わしたのだから今朝のうちに繰り返すことは不要と判断したのだろうと分かりました。
 ゆいちゃんにはそういった頑固なところがあります。
 これもまた、梓ちゃんに似ているところかもしれません。

 じっと視線を向けましたら、にんまりと笑顔を返してくれたので、お近づきの許可を得たと安心して彼女の向かいの椅子に着席しました。

 そこから振り返り、キッチンで働く梓ちゃんを眺めました。
 横顔からはやはり疲労が見てとれます。

唯「……梓ちゃん」

 あまり多くを話してはくれないのですが、梓ちゃんはこの家に越す前も越してからも、よく眠れていないようなのです。
 彼女の姿は私にとって今も昔もさしたる変わりはありません。
 ただ、その表情は昔より翳りが多く、笑顔を見せてくれることが少なくなりました。

 彼女を自宅に招いたのは、彼女たち親子の実際上の生活の困難を和らげるためばかりではありません。
 梓ちゃんの心を覆う不安を取り去ってあげたいとの願いからでした。
 しかしその点について、いまだ私は無力であると認めねばならないでしょう。
<>20:35|23:30

 彼女の顔が曇っているのを見るのは、心苦しい。
 助けてあげたいと思うのに、自分がどうにもできないのがもどかしくてたまりません。

 かなうことなら彼女を抱きしめて、その胸のうちをすべて吐き出させてしまいたい——そう思うのだけど、それが単に私の中の欲望にすぎないことは私自身分かって……

ゆい「じーっ」

唯「……はっ」

 視線を感じて振り向くと怪しげな目つきでゆいちゃんが私をじっと見ていました。
 梓ちゃんをじっと見るところをじっと見られていた。

唯「ナンデモナイヨ?」

ゆい「うん」

 どうにも弱りました。
 ゆいちゃんには弱みを握られているのです。
 二人が私の家に下宿しはじめたその最初の日、出来心から寝ている梓ちゃんにキスをしてしまったところを見られて以来、どうにも弱いのです。
 こまる。

唯「うふふ」

ゆい「……」

 営業で鍛えたとっておきの笑顔でごまかそうとしましたが、彼女はじっと私の目を見たまま表情を崩しません。
 ならばとこちらも見つめ返せば、あちらはますます眼光鋭く、その鋭さたるや待ち針もかくやといわんばかりです。
<>

唯「あー……」

ゆい「あー」

唯「むむっ」

ゆい「むー」

 にらめっこが始まってしまいました。
 子供相手とはいえ、私は常に全力を出す女です。
 幸いにらめっこならば、妹と幼少のころより数知れず遊んで来ました。
 手加減も油断もしません。

ゆい「……」

唯「むむむ」

梓「あの……ふたりとも?」


 ——結局、その戦いは梓ちゃんが朝食の用意ができたことを告げるまで続きました。
 戦果は、二勝三敗。むねん。
<>23:54|次、梓視点0307、15:25

——中野梓——————

 寄宿生活も三十余日が過ぎた。
 時はすでに麗らかな五月。
 当初の懸念とは裏腹に娘もここの生活に慣れたようだった。

唯「今日はお出かけしようか」

 朝食を残らず平らげた後、朝の紅茶を啜りながら唯先輩が言った。

梓「どちらへですか?」

唯「近くのショッピングモール。車出すからさ」

梓「あの、それはいいんですけど……先輩、お仕事はいいんですか? いつも家にいらっしゃいますけど」

 唯先輩はミュージシャンだ。
 大学在学中に一人で出したCDが話題になり、爾来卒業後も精力的な活動を続けている。
 彼女のファンなら誰でも知っている事実である。
 しかし、私たちがこの家に来てからというもの、先輩が仕事へ出る機会はほとんどなかった。

唯「ん。私ってほら、テレビに出るような人じゃないから。レコーディングなくて、ライヴもなければ、だいたい暇なんだよね」

梓「そうなんですか?」

唯「むかし和ちゃんに『あなたそのうちニートになるわよ』なーんて言われたけど、ここ最近は半分くらい当たってるような気がするよ」
<>15:40

梓「ダメな人ですね」

 と、言ってほしそうだったので、そう返した。
 でも実際に今「そう」なのは私自身に他ならない。
 先輩は大げさな身振りで机に顔を突っ伏す。

唯「あうー。ともかく、二人ともそろそろ衣替えもしなくちゃだし、お洋服でも買いに行こうよ。ゆいちゃんはどこか行きたいところある?」

ゆい「動物園」

唯「おう……動物園かー、そいつはちょっとヘビーだね。もうちょっと軽いのはないかな」

ゆい「……お母さん、あのね、こないだゆいちゃんがね」

唯「ま、ま、待ってゆいちゃん! それなんのお話?」

ゆい「こないだなんだけどね、この人……お母さんに……き」

唯「わかった! 動物園には今度行こう。約束する。だからそのお話はやめよう。なんなら遊園地も行こうか」

ゆい「ありがとう」

梓「こら、結!」

唯「違うんだよ、梓ちゃん。私がすっごく動物園に行きたかったんだ。ほんとう。だからなにも聞かないで」

 なんだか分かりませんが、先輩はすごくあわててる様子だ。

ゆい「指きり」
<>16:00

唯「うん。指きりげんまん! これで取引成立だね」

梓「先輩もうちの子によくしてくれるのはありがたいんですけど、あんまり結を甘やかさないでください」

唯「んー。唯ちゃんは憂に甘やかされてきたからねえ。ついついゆいちゃんに甘くなっちゃうのかも」

梓「憂……」

 かつてのクラスメートとも、もう久しく交流がない。
 今ならば、唯先輩を通じて会いに行けるだろう。
 けれど、かつて友人たちの前から何も言わずに姿を消してしまったことの引け目と罪悪感から、私はそれを出来ずにいた。

唯「それに梓ちゃんの子供なら、私にとっては孫みたいなもんだよ。お婆ちゃんは孫に甘いってよく言うでしょ」

梓「私は唯先輩に育てられた覚えはありません」

唯「どちらかというと梓ちゃんが私のことを育ててくれてたかもね。いつもほら、こんな風にお世話を……」

 先輩は指先を狐のような形にして私の顔に近づけた。

梓「え?」

唯「よっと。ご飯粒。ついてたよ」

 顔が赤くなるのが分かる。
 隣席のゆいがぷっと吹き出して拍手をした。

梓「す、すみません」
<>16:15

唯「へへ、むかしと逆になったね」

ゆい「お母さん、だらしなーい」

梓「うう……」


 結局、話をうやむやにされてしまった。
 唯先輩はおそろしい。


———


 急かされるままに外出の準備をし、午前中のうちに家を出た。
 それは季節外れの台風のような買い物だった。


唯「梓ちゃん、これ似合うんじゃない? ちょっと着てみて」

唯「ゆいちゃん、その靴気に入った? じゃあ買おうか。お姉さんに任せておきなさい」

唯「親子おそろいの色のコートとかどうかな……うーん、ちょっとこれ持ってそこに並んで!」


 私たちはまるきり先輩の着せ替え人形だった。
 先輩が次々に商品を精算し、けして私に代金を払わせようとしないのにも閉口した。
 嵐は三時間にも渡った。
<>

唯「たくさん買ったねえ! ひさしぶりの買い物楽しかったー」

梓「先輩、元気ですね……」

唯「まだまだ若いもん。梓ちゃん疲れたの? どこかで休憩しようか」

梓「むっ。私が若くないっていうんですか?」

唯「梓ちゃん、運動不足だよー」


 ショッピングモール内のレストランで軽い食事を取る。
 これで終わりと思ったら間違いだった。
 午後になると先輩は日用のこまごまとした品を物色し始めた。

 蛍光灯、歯磨き粉、食器用洗剤(先週私がスーパーで買ったからいいというのに、聞かなかった)、ブラシ。
 買い物は徐々に陽気なショッピングから、狂気の様相を呈してきた。
 なぜ靴べらや靴箱なんてものまで買わなくてはいけないのかは、おそらく先輩本人にすらわかってはいなかったに違いない。

梓「先輩、いつもこんな調子なんですか?」

唯「うふふー。買い物は私の趣味だよお」

梓「憂が見たら怒りません?」

唯「一度憂を一緒に連れて来てね、そしたら『お姉ちゃん、無駄遣いしちゃダメでしょ』って怒って怒って、あれはほんとに怖かった」

 もはやあきれることしかできない。
<>

梓「……」

 憂の名が口から自然に出てきたことに今さらながら戸惑う。
 先輩の無邪気な様子を見て、あの頃がそのまま戻ってきたかのように思えたせいかもしれない。
 もっとも、高校生の頃の先輩にこのような無茶な買い物をするだけの資力はなかったのだが。

ゆい「お母さん」

 くい、と結が私の袖を引いた。

梓「なあに?」

ゆい「あれ」

 指差した先には原色に塗られた屋台があった。
 黄色に赤の縁取りで「たいやき」と書かれている。

唯「ゆいちゃん、たいやき好き?」

ゆい「食べたことない」

唯「おっと、そいつはいけない! 待ってて、買ってくる!」

梓「あ、唯先輩! いいですよそんな」

 制止も聞かず走ってゆくと、あっと言う間に大きな紙袋を抱えて戻ってきた。

唯「お待たせ。さ、どーぞ」
<>16:51

 結は無言でたいやきを受け取り、一口かじり、それから二口、三口と押し黙ったまま食べ続けた。

唯「きっと気に入ると思ったんだ。梓ちゃんそっくりだね」

梓「え?」

唯「ふへへ、梓ちゃんもたい焼き好きだったから。はい、梓ちゃんも」

梓「ありがとうございます。よくそんな昔のこと覚えてましたね」

唯「覚えてる? 皆でピクニックに行ってさ。りっちゃんが梓ちゃんの口にたい焼き詰め込んで……」

 もちろん今もはっきりと覚えている。
 先輩の言葉を聞いた途端、目の前にスクリーンを広げたかのようにあの日の光景が広がった。
 そこには唯先輩がいて、他の先輩方も、さわ子先生も、あの日のままの姿で並んでいる。
 ——思い出の中の姿に変化がないのは、もう何年も、あの人たちに会っていないから。

 それは私が自ら捨ててきた光景だ。
 もう二度と、彼女たちに会う事はないだろうと思っていた。
 けれど今、私の前には唯先輩がいて、あの日と同じように笑っている。

 スクリーンは映画の上映が終わるように暗くなり、そして現実の光景が戻ってきた。

梓「ええ。ちょうどこんな季節のことでした」

 胸が詰まり、それ以上は言えなかった。
<>17:00|20:40

———


 先輩たちが高校を卒業してからも、放課後ティータイムは何かというと集まって、スタジオでの演奏や他愛もない近況報告をしていた。
 先輩たちのいない生活など考えられないと思っていた。
 いつか離れる時が来るとは考えていなかった。
 だが、それを壊したのは私だ。

 大学二年の年、私は以前から付き合っていた男性とともに実家から逃げ、親から逃げ、友人から逃げ、生まれ育った街から逃げた。

 先輩がいた頃の記憶とは反対に、当時の出来事は劣化してまともに上映することのできないフィルムとなっていた。
 私はあの激しい数か月を、映像で思い出すことはできず、断片的な記憶と、現在からの推測からしか知ることができない。
 そしてその後の数年は、思い出したくない記憶に属する。
 私たちの生活を乗せた船はすぐに座礁しかけ、そして船底に致命的なダメージを負ったまま数年もの航海を続けた。
 唯先輩が救いの手を差し伸べてくれなければ、私は今も遭難し続けていただろう。


 もし、あの時、彼がいなくて、私も生まれ育った町から逃げなかったとしたら。
 もし、あれからずっと先輩達と日々を過ごしていたのなら。
 今の自分はどうなっていただろう。
 途方もない仮定は私の心を混乱させる。けれど。
 もし。



 あの頃の「私たち」に別の恋の仕方があったとしたなら、どれだけよかったろう。

<>20:53|

 帰り道。

唯「ゆいちゃん寝ちゃった?」

 唯先輩は車を運転しながら、カーステレオの音量を下げる。

梓「唯先輩、今日はありがとうございました」

唯「いいよお。お礼なんて」

梓「お金はかならず払います」

唯「いいって、そんなの」

梓「でも……悪いです」

唯「ねえ、梓ちゃん」

 信号待ちの停車で、唯先輩は運転席から振り返って私に視線を向けた。

唯「いつか言ったよね、私が好きでやってるんだって。梓ちゃんは気にする必要なんかないの」

梓「……ごめんなさい」

唯「そういうのもナシ」

梓「あっ先輩、信号!」
<>23:53

唯「おっと……ねえ、梓ちゃん。考えてみて。もし私がさ、——私じゃなくて憂でも純ちゃんでもいいんだけど——すっごく困ってて、一人じゃどうにもできなくて、それで梓ちゃんが私のことを助けられるとしたら、どうする?」

梓「それは……唯先輩のことを、助けたいと思います。もし、そうできるのなら」

唯「ありがと」

梓「……先輩、ずるいです」

唯「それよりさ、今朝むかしの夢を見たんだ。合宿の。私と梓ちゃんとムギちゃんで買い出しに行ってるところでさ、私が『カレーにしたい』って言うんだけど梓ちゃんが『ダメー』って」

梓「それ、私が一年の時ですね。それで今朝はカレーって言ってたんですか」

唯「私カレー大好き。あの時は結局カレーにしたんだっけ、梓ちゃん覚えてる?」

梓「さすがにそこまでは……」

唯「すっごく、カレー食べたかったんだよなあ」

梓「ふふ。今晩はカレーを作ってあげましょうか?」

唯「ね、みんなと会ってみる気ない?」
<>23:59

 不意の言葉に、身を固くしてしまう。

唯「無理に、とは言わないけど。りっちゃんも、澪ちゃんも、みんな会いたいって言ってるんだ」

梓「ごめんなさい……私まだ……」

唯「——わかった。でも、会いたくなったらいつでも言ってね。そしたらもう、みんな絶対に飛んでくるから」

梓「はい」

唯「あはは。あの日はさ、いっぱい遊んだよね」

梓「練習もせずに、ですよね」

唯「海水浴に、肝試しに……花火も」

梓「はい」

 CDの曲が終わり、曲と曲の合間の沈黙に、車体が風を切る音とタイヤがアスファルトを擦る音の二つが車内を満たす。

 私は後部座席から先輩の姿を見ていた。
 先輩はあの日からなにも変わらないと思っていたけど、こうして見ると、昔よりずっと綺麗になったように思える。
 膝の上には、小さな寝息を立てる結の体重を感じる。

 次の曲が始まった。
<>

唯「この曲、好きなんだ」

梓「なんて言うんですか?」

唯「吉田拓郎の『今日までそして明日から』」

梓「むかしの人ですよね」

唯「梓ちゃん、今も生きてるよ」

梓「そうでしたっけ」

唯「そして今私は思っています、明日からもこうして生きてゆくだろうと。……なんか花火したくなっちゃった」

梓「え? 今から花火ですか?」

唯「そう。ゆいちゃんきっと喜ぶよお」

梓「五月に売ってませんよ」

唯「きっと少しくらい置いてあるよ。そこのホームセンター寄るね」

 その後、店を三件回ったが、結局私たちは花火を見つけることは出来なかった。
<>0308、00:17|00:30

———

 真夜中。
 隣で眠っている結を起こさないように部屋を抜け出し、手を壁に伝わせながら真っ暗な廊下をゆき、台所へ向かう。
 蛇口を捻り、冷たい水をコップで受ける。

梓「……はあ」

 先夫と別れる前からの不眠は未だよくならず、私を苦しめていた。
 以前心配した唯先輩が睡眠導入剤をすすめてくれたが、断った。
 私はただ、目をつぶるのが怖いのだ。
 眠っていてもあまり良いことはない。
 先輩は、夢の話を楽しそうにするが、私の見る夢は悪夢ばかりだ。

 コップから水が溢れていることに気付き、慌てて水道を止める。
 そのまま口をつける気にもならず、暗い台所の中で座りこんだ。

 どれだけ時間が経ってからだろうか。

唯「——ねむれないの?」
<>00:49

梓「ゆいせんぱい?」

唯「電気点けるね」

 ぱちりとスイッチの音がし、一瞬にして明るくなる。
 眩しさに私は目を片手で覆いかくす。
 いつの間にか、唯先輩が部屋の入口に立っていた。

梓「すみません、起こしちゃいました?」

唯「ううん。私も眠れなかったんだ。隣、いい?」

 先輩は私のすぐ隣の床にぺたりと腰を下ろす。
 先輩の髪から、ふわりといい匂いがした。

唯「寝れないときは、あっためた牛乳を飲むといいんだってね」

 そんなことを言った。

唯「一時期、私もあんまり眠れないことがあったんだ。その時に憂が教えてくれたの」

梓「牛乳は、あんまり好きじゃありません」

唯「知ってる」

 何が面白いのか、にへへと先輩は笑った。
 私もなんとなく、つられて笑ってしまう。
<>00:57

 不思議な感じがした。
 こうして、先輩と二人きりで真夜中に床に座っておしゃべりしているなんて。
 自分たちは今、地球ではない別の惑星にいるのだ、という奇妙な想念が沸く。
 そしてその惑星の中には、この台所と、それを含む先輩の家、それしかないのだ。
 あとは何ひとつない荒野。

唯「なんか、へんな感じだね。こういう時間に起きてるのって」

梓「そうですね、とても」

 壁の時計は、午前三時を示していた。

唯「今から演奏でもしちゃおっか」

梓「だめですよ、結が起きちゃいますし——近所迷惑になります」

唯「防音だから平気だよお」

 先輩はそれ以上は言わなかった。冗談だったのかもしれない。

 冷えた空気の中、先輩の体温が伝わってくる。

唯「ところで、梓ちゃんや」

梓「なんです、唯先輩?」

唯「私と一緒にバンドやるって話、考えてくれた?」
<>

梓「それは、お断りします」

唯「即答かあ……どうして?」

梓「私なんか、とてもプロと一緒に演奏できる人間じゃないです」

唯「そんなことないよお。梓ちゃんの方が私より上手いじゃん」

梓「先輩は私を買いかぶりすぎです」

唯「梓ちゃん、私のファンだって言ってたのに。なのにどうして一緒にやりたくないの?」

梓「ファンだからです。下手なギターで先輩の音楽を壊すことなんてできません」

唯「むう。難しいことを言う」

梓「難しくありません。とにかく、それだけは勘弁してください」

唯「ちぇ〜、梓ちゃんに振られちゃった」

梓「なんですか、それ」

唯「ふへへ」

 先輩が誘ってくれるのは、もちろん悪い気はしない。
 でも、彼女はそれを、私に気を遣って言ってくれてるのだ。
 そんな好意をそのままに受け取るわけにはいかない。

梓「——先輩、私からも聞いていいですか」
<>01:13

唯「ん、なあに?」

梓「先輩はどうして、私のこと『梓ちゃん』って呼ぶんですか」

 高校時代、あの頃の唯先輩は私を『あずにゃん』というあだ名で可愛がってくれていた。
 唯先輩しか使うことのなかったあだ名だ。
 でも今は梓ちゃん。
 あずにゃんなんて、恥ずかしいネイミングだけど、今となっては懐かしい。

唯「前にも言ったような気がするね」

梓「前にも聞いたような気がします」

唯「なんとなく、かな」

梓「なんとなくですか」

唯「人と人との関係は変わってしまうものなのよ」

 横を向いたまま、ひどくまじめな顔で言うので驚いてしまう。
 すぐに先輩は表情を崩し、噴き出した。

唯「って、和ちゃんが言ってたんだけどね」

梓「……関係」

 私と、唯先輩の関係は変わったのだろうか。
 私は今まで、唯先輩だけは変わりようのない人だと思っていた。
<>01:24

 だけど、そんなはずはないのだ。
 唯先輩だって、変わってしまう。むろん私も。
 それは雲の様子がゆっくりと変わるように、目にはさやかにみえないことだが、同時に止めようのないことなのだろう。

 昔、私は先輩をだめな人だと思っていて、この人の世話をしなければと思っていた。
 今の先輩は、私にとって恩人で、よくしてくれる人だ。
 本当は私より料理もうまい。

 それでも彼女の本質は変わらないのだと、どこかでそんな気がしていた。
 きっと、願望だったのだろう。
 私にとって、先輩がいつまでも変わらない人であってほしいという願望。
 唯先輩という人は、あの頃の青春のすべての、その輝かしさの全部を一身に引き受けて表現したような存在だったのだ。
 本人には恥ずかしくて言えないけれど。

唯「梓ちゃんもさ、私のこと唯先輩、なんて呼ばなくてもいいんだよ」

梓「——え?」

唯「敬語も使わなくていいしさ。もう高校生じゃないのに、『先輩』なんて変だよ」

梓「唯先輩は、唯先輩ですよ」

唯「なんかその台詞、私みたいだね」

梓「ほんとですね」

 おかしくて笑ってしまう。先輩も笑った。
 夜の空気が私たちをおかしくしているのだ。
<>01:32

——平沢唯—————

 その夜、梓ちゃんはよく笑ってくれました。

梓「ふふふ」

唯「ふへへ」

 ゆいちゃんが寝ているからと声を抑えますが、笑ってはいけない、という状況がまたおかしさを引き立たせていました。

 笑った梓ちゃんの顔は、やっぱり可愛いです。
 あの頃と変わらずに、と言いたいけれど違いました。
 あの頃よりもずっと。


 ——笑いながら、私は胸の鼓動をさとられるのではないかと恐れていました。
 自分が梓ちゃんを慰めるために隣にいるのか、ただ梓ちゃんの存在を感じていたくてここにいるのか、だんだん分からなくなりました。

 胸の中で自分を戒めます。
 こんなことは考えてはいけないことだ。
 梓ちゃんを、ゆいちゃんから奪おうだなんて。
 それは卑怯なことなのだから。

 親鳥が雛を育てる小鳥の巣を、木陰から狙う恐ろしい蛇になったような気がします。
 でも、こんなのは、一時の気の迷いです。
 夜のせいで、私は彼女への親愛の情と愛情を間違えているのでしょう。
<>

梓「どうかしました?」

 無言で、じっと梓ちゃんの顔を見ていたのを不審に思ったのでしょう。
 梓ちゃんが顔を近づけて言いました。

唯「なんでもないよ」

 本当になんでもないふりをして、私は立ちあがりました。

唯「梓ちゃん、ココアなら飲む?」

梓「あ、はい」

唯「私のど乾いちゃった。お湯沸かすよ」

 動揺を気取られないように、足早に戸棚へと歩きます。
 梓ちゃん、あんなに顔を近づけちゃいけないよ。
 心の中で抗議しても、しかたありません。

梓「それなら私がやります」

唯「いいよお、私がやるから」

 立ちあがりかけた梓ちゃんを制止しようとして、——不注意だったのでしょう。
 私は転んでしまいました。
<>01:56

——中野梓—————

唯「……」

梓「先輩?」

 先輩は私の上にいた。
 何が起こったのかすぐには分からなかった。
 顔にかかる彼女の熱い息を感じながら、先輩が足を滑らせたのだろうと思い当たった。
 私は斜めになる彼女の身体を押しとどめようと手を出して、先輩の転倒に巻き込まれたのだ。

 まっすぐに垂れた先輩の髪からは、シャンプーのいい匂いがする。

梓「先輩?」

唯「……ごめん、梓ちゃん」

 先輩の熱い息がかかる。
 ごめん、と言いながら私を押し倒したまま、どこうとしない。
 夜更けにもかかわらず、遠くから自動車の走る音が近づいて来て、やがて遠ざかっていった。

 私は体の上に彼女の温もりを感じながら、悩んだ末に目を閉じた。

梓「いい、ですよ」

唯「——!」
<>

 こういうことはいつか起きるだろうと考えていた。
 そして、それが今なのだ。
 そう思った。


 ぎしり、と床を踏む音がする。


唯「——おやすみなさい、梓ちゃん」

梓「——」


 先輩は部屋を出て行った。
 私に何もすることなく。

 私はしばらく目をつむったまま横たわっていた。

 熱い体温が冷えたころ、ようやく部屋に戻り、娘の横で眠りについた。

————————
—————

<>02:11|以下、和への手紙|0310、10:22

TO:和ちゃん
SUB:
どうしよう和ちゃん
<>

TO:唯
SUB:RE:
どうしたの?
落ち着いて。
<>

TO:和ちゃん
SUB:RE:
あずさちゃんのこと
あきらめられないよ。
<>・唯回想:梓について、合宿、夏フェス、CD|11:02

———

 寝返りを打つ。
 昨夜のことを思い出し、寝床から離れるのがいやになる。
 もうこのまま私という存在が消えうせればいいと思います。

 平沢唯という人間はいったい何なのでしょうか。
 ひきょう者ではないでしょうか。
 私は、ひきょうです。
 昨夜に抱いた感情は、絶対に友情なんかではありません。
 ただの汚い欲情でした。
 自分でいくら嫌悪してみても、罪穢れがなくなるわけではありません。

 このまま彼女を家に置くのはよくないかもしれない。
 けれどけして、私は自分の側から彼女を追い出すことはできないでしょう。
 その勇気は私にはありません。
 もう一度、傍にいる大事な人を失うなんていやです。
 私はひきょうな人間です。
 病気かもしれません。

 私は梓ちゃんが好き。
 なのでしょうか。

 ——私は、梓ちゃんが好き。

 口に出してみれば、どうやら本当らしい気もします。

 ——今も梓ちゃんが好き、あの日と変わらずに。
<>11:10

 恋のはじめがいつなのか、わからない。
 少なくとも、彼女が部室にいるのがあたりまえになったときには既に特別なきもちがありました。
 もしかしたらひとめぼれだったのかもしれません。

 私はなにか大変なことが起きるたびに、大切な親友になんでも相談してきました。
 その時もそうでした。

唯「和ちゃん、私好きな人ができた」

和「あら、おめでとう」

唯「本気で聞いてないでしょ」

和「ちゃんと聴こえてる。相手は?」

唯「あずにゃん」

 あきれられました。
 それから反対されて、私がどうしても本気なのを知ると、もう一度あきれて、最後にはやさしく応援してくれました。

 和ちゃんが私のことをどう思ったのか分かりません。
「同性愛者」だと知ってびっくりしたかもしれない。
 だけど応援してくれると言ったことは事実で、嘘を吐くような人じゃないのです。
 私は隠した気持ちを打ち明けられる相手ができたことを喜び、それからは毎日和ちゃんにメールをしました。
 後から聞いた話では、私からの梓ちゃんに関する毎日の報告に終いにはうんざりしていたようです。
 ごめんなさい。

和「……梓ちゃんが好きなのはようく分かった。だけどそれを私に言ってどうするのよ」
<>11:26|16:30

唯「ふえ?」

和「本人に言わなきゃ意味ないでしょ」

唯「は、はずかしい!」

和「こっちが恥ずかしくなるようなメール毎日送って来てよく言う……」

 告白しようと思いました。
 そしてその絶好の機会はすぐに巡ってきました。

 部活の合宿です。
 私は合宿の最中、なんども梓ちゃんにアプローチを仕掛けました。
 今思えば、それはちょっと的外れでまるで届きようもないやり方だったように思います。
 梓ちゃんは私の告白をぜんぜん意に介しませんでした。
 いえ、まるで梓ちゃんがにぶい子であったかのような言い方は間違いです。
 ひょっとするとそういうこともあったのかもしれませんが、私のやり方が拙劣だったのと、もうひとつ、決定的な失敗を恐れて、踏み込んだことを言えなかったからです。
 二の足を踏んでばかりいるような、いつでも退却の用意のできたみっともない「告白」でした。
 そんなものが、相手の心に通じるはずがありません。

唯「あずにゃん」
<>16:50↑一時中断/H23.09.20 15:57


<>梓
 人間が子供を育てるのは本能によるのではない。
 習慣からである。
<>・墓参
<>・帰り道:唯の母
<>・動物園
<>・母親
<>・

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